草野 須美
水墨画教室
エッセー    私の趣味と諸々の出来事で描いた自画像     
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新聞や雑誌などに寄稿したエッセー
 

「卒業後の私」                    高田高校バトミントン創部50周年記念冊子寄稿

 

高田高校卒業後、関西の同志社大学に進学。これは東京都内の大学志望であった私はもとより、両親にも想定外のことでした。レオパレスなど賃貸情報の乏しい時代です。縁故、知人が居ない土地での下宿探しは大変で、それでも伝手をたどりようやく下宿先を見つけてくれました。親戚縁者は無く、先輩、同級生もいない土地での学生生活スタートは心許ないものでした。今にして思えば、遠くふるさとを離れて一人暮らしの私でも安心して電車に乗れた危なげのない時代で良かったと思います。

 

寂しさを紛らわすために、先ず私が始めた行動は「バドミントン部入部」です。運動部に入り肉体を酷使し、余計な考えを持たないのが最良の解決策と思えたからです。その当時は、同志社大学にバドミントン女子部はなく、女子大の部に入れてもらい合同練習をしました。大学前の京都御所は、丁度外周4キロ、内周1キロあり、この周回コースを走りこむのが練習前の日課でした。

 

試合は弱いにもかかわらず、怖いもの知らずで、神戸、東京、熊本と遠征し、2回生になる頃には、どっぷりと関西に同化していました。雪国越後から出てきた私は、周囲を見回す余裕ができ、言葉の違いにも慣れ、良い友人知人に恵まれて、卒論の準備を機にバドミントン部を退部するまで充実した日々を過ごすことができました。

 

家庭を持ってからは、一番下の子供が小学校に入るまで主婦業に専念しスポーツと無縁の生活でした。高高の講堂に掲げてあった扁額の「第一義」が、いつの間にか生活信条となり、その時に一番大切な子育てを重視する専業主婦に腰を据えたのです。小学校のママさんクラブに入ろうとバドミントン部を希望したのですが、あいにくなくてやむなく卓球サークルに入りました。15年前に右足を骨折するまで卓球を続けましたが、今はその折リハビリによいと勧められた水泳に週1回通っています。全く泳げなかったカナヅチが、上手くはなくてもバタフライまで一通り泳げるようになりました。

 

バドミントンを始めるきっかけが何であったのか記憶は定かでありません。決して運動神経が良かったとも思いません。勿論、優勝経験など皆無です。しかし、スポーツで汗を流す爽快感と楽しさは格別なものがあり、健康と体力維持のためにも継続したいと思っております。

 

(母校の気風「文武両道」に習い、滋賀県内において水墨画、茶道、華道などの教室を主宰しておりますので、併せてご報告させて頂きます。
教室のホームページ「花寿会」アドレス・http://oumihatukei.michikusa.jp/



                     水墨画月刊誌「点描  

 生きとし生けるもの全てに平等に与えられているものが幾つかあります。その最たるものが「時」ではないでしょうか。この世に生を受けたその時から、人それぞれに人生の「時」を刻み始めます。天から授かった人生の時の流れに長短の不公平はありません。最後は等しく黄泉の国です。時の経過によって生ずる「生老病死」をいかに克服するか?この現実から人のみが宗教・芸術の世界を開きました。

 絵筆を持ち紙面に向かい全ての煩悩を消滅して自分なりに目前の画の世界に浸ると三昧の境地。まさにそれは壺中天の心境。至福のひとときを過ごせます。更に、できあがった絵はさまざまな人の気持ちと関わりを持つことになります。ただ素通りするだけの場合もありますが、心の琴線に触れて新たな出会いが生まれることもあります。
又、絵を通じて先輩の方々に教えていただく機会にも恵まれ世界が広がったよに思います。「ものさまざまなればこそ、ものさまざまの価値あり。」人はそれぞれ自分の人生しか味わえないなら私は絵を描き、絵を通じて「時」を刻んでいきたい。願わくはその積み重ねで心が満たされるように祈りたいと思います。かすかに風の気配に秋を知る「時」となってそんなことを思っています。
                                     
                           


楽志楽生    三井寺(天台寺門宗総本山長等山園城寺)ホームページ「喫茶得道コラム」
降る雨が紫陽花の花を一層ひきたたせる。

 「楽志楽生」の額を掲げながら義母が黄泉の国に旅立って百か日が過ぎた。フレデリック・ラングブリッジの詩に「二人の囚人が鉄格子から外を見た。一人は天の星を仰ぎ一人は地の泥を見た」とある。限られた時間と空間の中で願わくは「楽志楽生」でありたい、そんな義母の思いが伝わってくる。思えば三井古流に導いてくれたのも義母。紫陽花にそっと降り注いで花を美しく見せる慈雨のような生き方をした人だった。天職と思ってついた教職を八年で退いたが、忍耐強く自分を控えて人を導く、生涯教師であり続けたと思う。

 壺中会長の任に就いて一年。右往左往の日々を過ごし会員の皆様には多大なご迷惑をかけていることと思う。頂くご縁は余程の無理が無ければ受けることにしている私にしても、この度は「これで良かったかしら?」と自問自答することがしばしばである。

 未熟な私を多くの方が支えて下さり、様々な経験は私の成長を促す糧と信じ、残る一年の任期を「楽志楽生」で勤めたいと願っている。


古里を遠く離れて         新幹線車内誌「ひととき」2005Vol1.5No3掲
 「旅」というニュアンスには、楽しい、うれしいの他にどこかもの悲しさが含まれているように思うのは私だけだろうか。もう随分昔の話になったが、私が最も心に留めておきたい列車の旅は、父の訃報を聞いた時だった。
 
 嫁ぎ先からどんなに急いでも10時間はかかる。本数も無い。しかし、はやる気持ち、流れる涙は車中での時間の経過が落ち着かせてくれた。そして「そうか、遠方に嫁ぐということはこうゆうことなのか。それだけで、親不幸なんだ」と実感させられた。
 
 今年は還暦。古里を離れて関西に在住の同級生の会ができ、頻繁に集いが持たれる。幼い日の共通の思い出の他に、古里を後にしている言わずもがなの一種罪の意識が、互いの連帯感を強めているのかもしれない。
しかし、間もなく雪に埋もれるであろう故郷は、常にやさしく、あたたかい。雪解けには父・母の眠る古里へ戻ろう。


「施茶」に心満たされて  三井寺(天台寺門宗総本山長等山園城寺)ホームページ「喫茶得道コラム」

 路傍のコスモスが風と戯れ、懐かしい記憶を運んで来る。振り返れば、ここ数年の出来事は私にはとても大きい母との別れ。自宅建て替え。個展開催。実家類焼。子供の結婚。様々なできごとを通して出会った人々の心の温もりは何ものにも代えがたい。
 
 自然の織りなす風景・人の営みから生まれる作品・人情の機微は今更ながら出会いと明日に向かって歩くことの大切さを示してくれる。三井古流煎茶道は精神の高揚を重んじ賢人の足跡を辿って「日々是好日」の生活をするように教え、お点前には「心」「行」「創」がある。受け止めた心を実践する一つの道が「施茶」ではなかろうか。
 
 先ほどまで見ず知らずの他人同士が「お茶をどうぞ召し上がれ」一煎のお茶を介して触れ合い、交わした言葉が後々まで双方の胸に残る。ようやく「施茶」の素晴らしさを判りかけてきた昨今であるが、間もなく来る今年度の「施茶」当番の日には心新たに「喫茶去」と言いたい。そしてこれからも一度限りの人生を茶道の心を糧としてより深くより豊かにしていきたいと思う。



思い深き古里で個展         読売新聞「ティタイム」2002.9.10
 古里・新潟県上越市を離れて四十年。一昨年の暮れに母を亡くし、来し方を振り返り、改めて古里への感謝の気持ちを強めている。

  今は大津で生け花と水墨画の教室を持っているが、「雪と桜の都」への思い入れを形にしたいと考え、先月、古里で個展を開いた。毎年、八月十二日に行われている高校の同窓会とあわせて、小学校のクラス会も三十八年ぶりに開いてもらった。"初恋も 笑いが溶かす 同窓会"。歳月はあらゆるものをサラサラと流して、何のためらいもなく話せるようになっていた。同級生らが手伝ってくれ、たくさんの方の協力で、不安だった個展の開催は、多くの出会いとふれあいを得て、胸にずっしりと素晴らしい思い出を蓄えた。
 
 会場で撮った写真や礼状の送付。今、感謝を込めて三百人近くの方に一通ずつしたためている。出合ってナンボ、歩いてナンボの人生。思い切って踏み出した一歩は心の糧となって、これからの歩みを支えてくれるエネルギーのひとつになると信じている。

                                             





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